マツダ百年史② キャラバン隊 鹿児島-東京間の旅(1930年代)
マツダ創立100周年を記念して、100年の歴史から特に象徴的なエピソードを厳選してお届けします!
第2回は、前回とりあげた自社製三輪トラックの発売にこぎつけた5年後の1936年。
三輪トラックの販売競争が激化する中、全国でマツダ(当時の東洋工業)を知ってもらうために列島縦断キャラバンに挑戦した時のお話です。
1936年4月29日。降りしきる雨の中、鹿児島の照國神社前で5名の社員が三輪トラックにまたがり、その時を待っていた。
照國神社で整列したキャラバン隊
雨音をかき消すようにエンジン音が軽快に響き渡る。
これを合図に、新発売の「KC36型」4台に現行「DC型」1台を加えた5台の三輪トラックによる、前代未聞の鹿児島-東京間の宣伝キャラバンがスタートしたのであった。
当時は需要の伸びを背景に、三輪トラックの販売競争が激化していた。
東洋工業は、自動車業界進出からまだ5年。テレビなどないこの時代、東京や大阪の大都市圏から遠い広島に本社を置く地理的ハンデは少なからず販売拡大の足かせになっていた。
そこで東洋工業は全国規模での認知を高めようと、マツダ号による宣伝キャラバンを敢行したのであった。
販売店前で宣伝する様子
鹿児島から東京までの走破を目指す彼らを待ち受けていたのは、気まぐれな天候と舗装されていない道路。
出発地の鹿児島では幾度となく降雨にたたられ、晴れ間がのぞけば照りつける日差しに体力を奪われながら、砂塵が舞う中を突き進む。
熊本を過ぎた辺りでは、「大荒れの玄界灘を渡るよう」と揶揄される悪路に苦戦した。
未舗装路を突き進むマツダ号
過酷ともいえる行程を支えたのは、各地で受けた歓待や激励の言葉。
キャラバン隊の訪問先は各地の特約店や商工会議所、新聞社など、全行程で計300か所。
ゆく先々で必ず人だかりができ、注目の的となった。
また、夜には持参した映写機を使った「マツダ号の夕(ゆうべ)」を開催。東洋工業の誇る三輪トラック、そして近代的な工場を映像と音楽で紹介した。
映し出された工場の壮観な様子と働く社員たちの姿に感嘆の声も聞こえ、広島の企業・東洋工業を聴衆の胸に刻み込んでいったのである。
訪問先で歓迎を受ける様子
5月6日。キャラバン隊は九州を走破した後、広島に立ち寄り、松田重次郎社長から「さらに一層の奮闘、努力を望む」と激励の言葉を受けた。
広島に立ち寄った際、重次郎社長宅で記念撮影
その後、呉、尾道、岡山を経て10日には大阪市内を大行進。
ここでもまたマツダ号の印象を力強く残していった。
京都で訪れたある企業では一同総出の歓迎に胸を熱くし、四日市では「マツダ号の夕」に300名余りの観衆が集まった。
神戸の販売店まで到達し、万歳で歓迎されるキャラバン隊
岐阜、名古屋、豊橋を巡り、清水では最後の試練となった暴風雨が行く手を阻む。
そして、熱海、横浜を経てついに5月22日、ゴールである東京上野の日本工業博覧会会場に到着。
鹿児島から東京までの約2700㎞の道のりを「無事故・無故障」で走破したのだった。
キャラバン走破後、明治神宮前で記念撮影
全行程24日間におよぶキャラバン隊の偉業を称えるように、この日は雲ひとつ無い日本晴れ。
会場は大勢の人出で賑わい、到着すると期せずして万歳が起こった。
その中心には、泥にまみれ、日に焼けて精悍な顔つきになったキャラバン隊の勇者の姿があった。
KC36型三輪トラック(1936年)
以上、自動車業界に進出したばかりで、全国的に知られていなかった地方企業のマツダが、
列島縦断キャラバンに挑戦することで知名度を上げていったお話、いかがでしたでしょうか?
担当ドライバーの一人はその後、
「屋根の無い三輪トラックで、未舗装路の砂ぼこりや暴風雨の中を進むのは凄まじかったが、完走後に売り上げがぐんと伸び、よかったなぁとみんなで肩をたたきあった」
と振り返っています。
また、戦後もマツダのキャラバン活動は積極的に展開され、中でも1952年には広島から東京までノンストップで走破する事に成功しています。
広島-東京間ノンストップ走破に挑戦中、愛知県の店舗前にて(1952年)
マツダ100周年サイトのMAZDA VIRTUAL MUSEUM「エピソードで語る百年史」では、
この他にもマツダ100年の歴史にまつわるお話をご紹介しています。ぜひご覧ください!
■MAZDA VIRTUAL MUSEUM
https://www2.mazda.com/ja/100th/virtual_museum/
■マツダ百年史記事(マツダ公式ブログ)
マツダ百年史① 自社開発へのこだわり(1930年代)
https://blog.mazda.com/archive/20200527_01.html