マツダ百年史⑤ 若者を振り向かせたハッチバック(1970~80年代)
マツダ創立100周年を記念して、100年の歴史から特に象徴的なエピソードを厳選してお届けします!
マツダ百年史ブログ第5回目では、1970年代、1980年代に、若者の関心を集めた2台のハッチバックのお話を紹介します。
「開発コードで呼ばれたクルマ」
時は1976年。
第1次オイルショックにより北米や日本市場で大幅な販売台数減に見舞われたなか、東洋工業はその苦境から脱却する救世主を必要としていた。
様々な緊急施策や商品ラインアップの根本的な見直しを図り、経営再建への一歩を踏み出そうとしていたが、時は悠長に待ってはくれない。
販売不振から盛り返す起爆剤が求められる中、1977年の1月にやっと待望の新型車が登場することになった。
三代続いた主力の小型乗用車「ファミリア」のフルモデルチェンジ車だった。
ターゲットとする顧客を従来のファミリー層から思い切って方向転換し、新しい感覚を持つ若者に絞りこんだ「ファミリアAP」。
待ち焦がれた新商品の投入にあたり、その広告戦略には大いに知恵を絞った。
さまざまな検討の末、世の中に打ち出したのは、「ウワサの508」というキャッチコピーを用いた発売前のティザー広告。
「508」とはファミリアAPの社内開発コード「X508」にちなんだ数字で、本来なら門外不出の機密情報。
それをあえて広告に使用し、正式な発表日まで期待をあおる戦略だった。
この広告は予想通りの反響を呼び、暗号のような数字が若者たちの好奇心を刺激した。
ベールに包まれた「ゴーマルハチ」とはいったいどんなクルマなのか?
多くの人々の関心を集めた。
そして迎えた1月の新車発表会。
ナンバープレートに掲載された開発コード「X508」
世間の関心を集めた「X508」はついに「ファミリアAP」の正式名称でお披露目された。
何よりもまず目を惹くのは、マツダ車としては初採用のハッチバックスタイル。
そして、カジュアルで親しみやすいデザインをまとい、「シグナルトーン」と称した、赤・黄・緑のポップな原色系カラーを提案した。
従来のマツダの乗用車とは全く異なる軽快な外観イメージで、ファッションに敏感で感性豊かな若い世代にアピールした。
1世代前のファミリアプレスト(1973年)
ところが、ここでちょっとした予想外の展開が待ち受けていた。
正式発売の後も、X508の文字はラベルとして、一部の純正用品やレースカーのサバンナのボディを飾ったが、ティザー広告のインパクトが世間一般の印象に強く残り、ファミリアAPという正式名称よりも、むしろ「508」の愛称が定着していくことになったのだ。
「新しいファミリア? あー、ゴーマルハチのことね!」
「ウワサの508」が、いかに大きな話題となったかが窺い知れる事実ではないだろうか。
「社会現象を起こしたクルマ ~ 赤いファミリアXG」
そして80年代。「陸サーファー」という若者たちが世を賑わせた。
小麦色に日焼けした肌もあらわに、サーフボードを小脇に抱える若者たち。
彼らの目的はサーフィンそのものというよりも、ファッションを楽しむことや素敵な出会いを生み出すこと。海に入らないから陸サーファー。
社会現象になった若者たちを実に見事に言い表した言葉であった。
陸サーファーたちのこだわりは、自宅を出発するところから始まる。
サーフファッションに身を包み、クルマもサーファースタイルだ。
ダッシュボードは鮮やかな人工芝で演出し、小さなヤシの木のオブジェをワンポイントに。
シートにはTシャツを被せ、ヘッドレストには赤いバンダナを巻きつける。
ボディを飾るのはステッカーだ。
仕上げに、サーフボードをルーフキャリアに載せ、街へと繰り出した。
そんな彼らが愛してやまなかったクルマこそ、ファミリアだった。
ファミリア(1980年)
ボディカラーは鮮やかな「サンライズレッド」、グレードは最高級の「XG」が彼らの定番。
この“赤のXG”こそが陸サーファーという社会現象の中心にいたのである。
若者から圧倒的な支持を受けたこの五代目ファミリア。
その企画は、数多くの人間が知恵を出し合い、カタチにしたものだった。
発売の2年ほど前、企画・設計・実験・デザイン・宣伝など様々な部門から集結した30名のメンバーが、本社の敷地内にある寮にこもり、新型車のコンセプトを集中的に討議した。
「自分が若者だったら、こんなクルマがほしい」
若い社員も、かつて若者だったベテラン社員も、部門や職位の壁を越え、のめり込むように理想像を出し合った。
そして、走り、エンジン、スタイリング、装備に至るまで多くのアイデアを出し、新型車の企画に丁寧に落とし込んでいった。
ファミリアは1980年6月に颯爽とデビューする。
直線を主体にした精悍なデザイン、快適な室内空間、軽快でスポーティーな走りが大いに人気を集めた。
そして、最高級グレード「XG」においては、さらに電動サンルーフや後席ラウンジシート、アルミホイールなどを標準装備。
これでもかと狙いすました高度な遊び心の数々が、若者たちの心をガッチリ捉えたのである。
インテリア
こうしてファミリアは爆発的にヒットする。
国内の月間販売台数で通算8度も首位に立ち、単月で2万台以上を販売した月もあった。
マツダ車の国内販売実績として過去最高の記録を残した。
第1回の日本カー・オブ・ザ・イヤーに選出されたファミリアは海外でも高い評価を受け、世界各国で販売が好調に推移。
結果、量産開始から27か月で生産累計100万台を突破するというスピード記録も打ち立てた。
ファミリアの大ヒットは、ターゲットとした若者が本当に求めるクルマを送り出せた結果だ。
その背景のひとつには、1975年から実施されたセールス出向で営業を経験した、多くのメーカー社員たちの存在がある。
全国の販売現場の最前線で得られた貴重な“生の声”を、実感をもって企画や開発に生かせたことも成功の大きな要因だ。
関わったメンバー一人ひとりがターゲットユーザーの目線で真剣にアイデアを考え抜いたことが、一時代を築くこの一台を生み出したのである。
以上、オイルショックという逆境をばねに、新しい試みを多く取り入れる事でヒットした2台のハッチバックのお話、いかがでしたでしょうか?
1970年代にはマツダにとって新しい試みだったハッチバックですが、その後多くの車種を出し、その血統はMAZDA3に引き継がれています。
いつの時代も積極的に挑戦を続けてきたのがマツダのハッチバック。
以下動画ではその挑戦の歴史を紹介しています。
こちらも是非ご覧ください。
マツダハッチバックヒーローズ
マツダハッチバックデザインの挑戦と継承
マツダ100周年サイトのMAZDA VIRTUAL MUSEUM「エピソードで語る百年史」では、
この他にもマツダ100年の歴史にまつわるお話をご紹介しています。
■MAZDA VIRTUAL MUSEUM
■マツダ百年史記事(マツダ公式ブログ)
マツダ百年史① 自社開発へのこだわり(1930年代)
マツダ百年史② キャラバン隊 鹿児島-東京間の旅(1930年代)
マツダ百年史③ 地元広島とともに志した復興(1940年代)
マツダ百年史④先進技術で常識を覆せ~エンジンとデザインへのこだわり~(1950年代)