マツダ百年史⑥ 三次試験場 ~目指せ、世界に通用するテストコース~(1960~80年代)
マツダ創立100周年を記念して、100年の歴史から特に象徴的なエピソードを厳選してお届けします!
マツダ百年史ブログ第6回目では、歴代マツダ車の走りを徹底的に磨き世に送り出してきた、三次自動車試験場にある2つのテストコースのお話を紹介します。
「高速時代へ一気に駆け抜けろ 本格テストコースの開設」(1960年代)
高度経済成長期の真っ只中、日本初の高速道路となる名神高速道路の建設が急ピッチで進み、日本の道路事情は大きく変わろうとしていた。
一方その頃、自動車の輸入自由化に対する圧力が高まると同時に、海外への日本車輸出も少しずつ増加の兆しを見せ、日本車と外国車の競合の激化が予想されていた。
こうした時代背景の中で、それまでの日本の道路環境下ではさほど重視されなかった「高速走行性能」が社会的に注目されるようになり、自動車メーカーの自社テストコースの開設が相次いでいた。
東洋工業(現:マツダ)の場合はさらに事情が切迫していた。
日本の自動車産業再編の噂も流れる中、東洋工業では自社の高い技術力を示し、独立維持の切り札になると目していた「ロータリーエンジン」の開発を進めていた。
その高速走行性能を磨き、また未知数であった耐久性をいち早く検証していくためにも、高度な性能試験を実施できる専用試験場の確保が急務となっていた。
こうして1965年5月、東洋工業は広島県北部の郊外に東洋一といわれた「三次自動車試験場」を完成させた。
竣工当時の三次自動車試験場(1965年)
この地域は地質が特殊なため工事は難航したが、関係者の不断の努力によって、着工から1年7か月の短期間で竣工することができた。
敷地面積は約150万㎡。
自動車メーカー単独のテストコースとしては当時国内最大級の規模を誇った。
三次試験場にある最も特徴的な施設が、全長約4.3㎞の三角むすび状の高速周回路だ。
黄色で囲った外周部分が高速周回路(1985年撮影)
3本の直線部分とそれを繋ぐ3つのバンク(カーブの傾斜)で構成されるこの周回路では、ドライバーはステアリングを真っすぐ保持したまま、最大で時速185㎞のスピードで高速走行を続けることができる。
この離れ業を実現したカギは、遠心力と重力の釣り合いを緻密に計算した3つのバンク形状だ。
そのベースとなる3次元の緩和曲線※は、当時の最新コンピュータを駆使して弾き出した。
※高速道路や高速テストコースなどで直線部と旋回部を滑らかにつなぐために設ける曲線。
遠心力と重力の釣り合い
このデータを元に工事用の型枠をミリ単位で設計。
現場では2mおきにこの型枠を嵌め込んで施工し、最後の仕上げは熟練工の手に委ねた。
高速周回路コーナー部を走行するコスモスポーツ
時速185㎞というのは、当時誰も経験したことのない〝猛スピード〟である。
この超高速域の試験において、極度の緊張を伴うステアリング操作からテストドライバーを解放した効果は大きく、心理的負担の低減や集中力維持に大いに役立った。
もちろんそれ以外でも、中低速域も含めた操縦安定性や騒音・振動などの様々な評価育成に活用していくことで、来るべき高速時代に向けて、マツダ車の走行試験が一気に加速していったのである。
その恩恵を最も受けたのはやはり、開発途上にあったロータリーエンジンだろう。
コスモスポーツ試作車(1965年頃撮影)
新機構ならではの様々な課題に取り組みながら、その成果をテストコースで速やかに検証する。
独自の技術を万全な状態で送り出すべく、その総走行距離は地球17周半に相当する70万㎞にも及んだ。
そして通常なら4~5か月を要する10万㎞の耐久走行試験も、三次ではわずか45日間で終えることができた。
ロータリーエンジン車誕生の裏側には、高密度なテスト実施を可能にした試験場の存在があったのである。
「世界の道が、世界に通用するマツダをつくる 総合性能試験路の新設」(1980年代)
ベルジャン路(ベルギーの石畳路)
「あの日本人は一体何をしているんだ?」
80年代中頃の欧州某所。
周囲から向けられたいぶかしげな視線も無理はない。
路面に糸を張り、道の起伏を測るマツダの技術者たちは、道路の修理をしているようには見えない。
ある時はアルプスの山岳路で、ある時は英国の荒れたアスファルト路で、またある時はベルギーの石畳で。
路面のひび割れを測定し、型を取っているその様子は、かなり異様な光景に映ったことだろう。
欧米への自動車輸出が拡大し始めた頃、海外で高い評価を得る走行性能を育成していくためには、まずヨーロッパの道路をよく知ることが重要だと考えた。
そこで、テストコース内に現地の道路環境をそっくり再現し、いわば〝ミニ・ヨーロッパ〟とでもいうべき仕様の区間を設定することを計画したのだ。
これが冒頭の一見不審な調査活動につながるのである。
ヨーロッパの道路環境をとりいれた「総合性能試験路 内周路」の侵入路
マツダのこの発想には、海外の著名ジャーナリストも強い賛同を示してくれた。
ル・マン24時間レースで優勝経験を持つ、ベルギー人のポール・フレール氏だ。
過去にマツダは、クルマのハンドリング性能についてフレール氏に幾度もアドバイスをもらってきたことがある。
欧州の道路事情に精通する彼に、今度はテストコースづくりについての意見を求めた。
彼は説明にじっと耳を傾けていたが、マツダの技術者が話し終えると、「Interesting!」と語り、コース図に対して「高速のS字が必要だ」「路面のうねりも欲しい」などと、3時間にわたって助言をしてくれた。
いつしか身を乗り出して熱く語る彼の姿に、技術者たちは大いに勇気付けられた。
地道な現地調査が実を結び、その後、新しいテストコースづくりは加速。
ドイツのアウトバーンや南フランスの山岳路、ベルギー伝統の石畳路など、欧州に実在する名だたる道をそっくりそのままディテールにこだわって再現した。
傷んでひび割れた路面さえも、現地で型を取って忠実に模す徹底ぶりだった。
耐久試験路
この特殊なプロジェクトに戸惑う舗装工事の施工業者には「路面がクルマを育てる」というマツダの信念をまず理解してもらい、パートナーとして取り組んでもらった。
路面がひび割れた劣化状態を再現しつつ、激しいテスト走行に耐え得る強度も持たせるという難題に対しては、全く新しい舗装技術を共同で開発することによって解決を図った。
また石畳の道については、「現地の本物でつくるべき」という考えから実際にベルギーで200~300年前から使われていた現物を日本に運び込み、形状や敷き詰め方に至るまで忠実に再現。
石と石の隙間は丁寧に土で埋めながら凸凹を細やかに仕上げていった。
別の箇所では、剥げたアスファルトから石畳がのぞく荒れた状態までもリアルにつくり上げた。
アスファルトベルジャン路(アスファルトが部分的に剥がれた石畳路)
こうして1985年、総延長4.6㎞の「総合性能試験路」が三次自動車試験場内に完成した。
世界各国に実在する十数種類の路面をリアルに再現したことで、現地の道路環境下での走行性能がより高い精度で評価できるようになった。
現在も、世界へ巣立つマツダ車のハンドリングは、丹念につくり込まれたこのコースで鍛え続けられている。
左:1965年 ⇒ 右:1985年 高速周回路の内側に新設された総合性能試験路
以上、マツダ車を世界に通用するクルマとすべく作られた三次自動車試験場のお話、いかがでしたでしょうか?
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